◆〓本のシャワーにさらす肌〓◆
【No.955】雑記あれこれのつづき…10月30日

◇子どもの教育関係、受験関係——書き出すと切りがないぐらいネタはあるけれども、身内のバカぶりをさらけ出して受けをねらっても仕方がないのでやめておくとして……ひとつだけ。

塾内のテストで先日、「EU、ヨーロッパ連合の通貨は何か」という問題が出たらしいのね。そこに同じ教室の別クラスの子が「PASMO」と書いたという。「だれ?」「だれ?」と大騒ぎになったらしいが、もちろん先生はそれを明かさない。
「そんなこと言って、実はおまえだろ?」と責めたが、どうも息子ではないようだ。実は「PASMO」なのか「スイカ」なのかは忘れてしまったという伝聞だけれども、これはかなり笑える。
同じマネーというカテゴリーであるから余計に面白い。必死に考えて出てこなかったので、似ているものを書いたのかもしれない。「とにかく埋めなさい」という指示を聞いた上でのことかもしれない。子どもにとっての真摯さはうかがえなくもないエピソードである。
いやはや、小学生相手の塾講って、楽しいこといっぱいだけれども、大変だよね。

うちも先般、模擬試験でアサガオの双葉の形を当てられなくて、「アホ!」とげんこつで頭を叩いておいた。「1年生で学校で育てて観察日記をつけたろうが」「おばあちゃんが育てていたろうが」と呆れたが、「だって、そんな昔のことは忘れたよ」だって。
さすが、覚えるのも早いが、忘れるのも早い子どもの記憶力、恐るべし。だからこそ、毎日過去を思い煩うことなく愉しいのだよね。

◇子どもの本について、ちょっとしたリストをまとめなくてはならない用事をずっと完成し切れずにいて、ようやく時間を取ってきょうは池袋方面の書店へ。
ジュンク堂はまだ秋モードだったが、リブロではもうすでにクリスマス・フェアに入っていて、驚いたというか、さすがというか……。
小春日和というにはまだ早い気がするけれども、きょうは東京は半袖OKでしたからね。若い娘でカシミア風のコートを着て、ピンクのマフラーを首にぐるぐる巻きにしている子がいて、いかがなものかと思ったが……。おそらく極度の冷え性なのでしょう。
<つづく>



【No.954】雑記あれこれ…10月30日


◇しばらく前に読んだ『ずっとお城で暮らしてる』が古い米国の詩人たちの詩の世界に似ている。特にエミリー・ディキンスン(ディキンソンとも)の表す、静かでやや不気味な美しい閉ざされた空間世界、箱庭的世界。
そして、書影リンク先にも書いたように、フロストの次の詩。

わたしは幾歳もの夏を経たとうの昔に
消え去ったことを知っている寂しい家に住む
ここに跡を残すのは地下倉の壁だけ
それも昼の光が射しこむ地下倉
そこに紫いろの実がつく野生のきいちごが生える。
(安藤一郎・訳『世界詩人全集12』新潮社)

これは、そのまま『ずっとお城で暮らしてる』の成り行きのような気がする。フロストの詩集が見つからないので、彼のテキストになる絵本『モミの手紙』を貼り付けておく。だって、もう、こういうシーズンだよね。
らでぃっしゅぼーやからも伊勢丹からもお歳暮カタログが届いたし……。

◇東京国際映画祭が28日に閉幕したようで……。
映画祭関係者のご厚意で、渋谷シアターコクーン上演の招待券をいただき、中井貴一主演の『鳳凰、わが愛』を先週水曜日に観てきた。それしか時間が取れなかったのだ。だが、中井貴一主演の恋愛物ならば見てよいかと思い、それにした。
そ、それが……。ちょうどお昼ごろなので、奥さま方がご覧になるのに良い頃合いということか、ものすごいメロドラマでびっくりした。あたしゃ『冬のソナタ』って見たことないのだが、たぶんこういう感じなのかもしれない。
半年ぐらいかけてテレビでやるようなメロドラマが2時間ぐらいのフィルムに盛られており、ここまで盛るのかあっ……と。

設定が「あり得ない」と叫びたくなる、同じ刑務所に収監された囚人と女囚の恋物語。中国の1920年ぐらいから物語が始まり、彼らの半生にわたる恋が描かれているのだが、この時代は中国にとっても忙しい時代で、政変ばかりが続く。「あり得ない」と思ったが、上映後にこの囚人同士の恋というのが中国であった実話と知り、のけぞった。
その設定を元に、川に張った割れそうな氷の上で2人が力を合わせて命を守り、また、強制労働中に谷に転げ落ちた女囚を男囚が転げ落ちて助けに行ったり、氷の彫刻に愛のメッセージを託したり……。見せ場がいっぱいで、ある意味、ジェームズ・ボンド物みたい。
メロドラマできちんと泣かされたいという向きにはお薦め。見所は、中井貴一氏の流麗な中国語だろうか。元々は日本人、しかし中国人として育てられ日本語は話せないという役柄なのだが、現地中国でも「まさか日本人の俳優だったとは」という評価だったらしい。
中井貴一って、着流しで銀座・久兵衛で鮨をつまんでいても似合うし、タキシードでドゥカッティに乗っていてもおかしくないし、庭先のバーベキューで野球帽でイカを焼いていてもおかしくない。何をしてもはまりそうなところがある。田園調布の紳士だからなのかもね。
特撮SFの宇宙人キャラもこなせそうな感じもある。地味そうだけれども役者栄えし、また、日常にもいろいろな場面がありそうな人。

上演後、おもむろに映画パーソナリティー(?)襟川クロさんが登場したのにつづき、何と監督と主演女優が舞台に現れ、トークショーが始まった。
しかし、どうもポイントが外れ気味の質問が多く、せっかくの美しい女優さんが話す機会が回らない。
「相当体を張った演技だったが、どの場面が一番納得して気に入っているか」やら「ヒロインのドラマチックな生き様をどう思うか」やら、女優さんの魅力を引き出す質問をみんなしてくれ……と思え、思わず舞台に上がって仕切りたくなった。
いや、質問は一部サクラを除き、前の方にいた報道関係者、イベント関係者だけでなく、一般観客もして良かった場ではあったのだがね。
<この項つづく>



【No.953】38分の1、15000分の38…10月23日


真ん中の写真絵本『介助犬ターシャ』のリンク先にコメントをつけている。
米国ではすでに1000頭活躍しているが、日本ではようやく38頭になったという貴重な介助犬のうちの1頭「いろは」を、先週息子の小学校の体育館で見ることができた。
(社団法人)日本介助犬協会の職員の方2名と「いろは」が体育館でデモンストレーションを行ってくれたのだ。
まだまだあまり耳慣れない「介助犬」だが、手や脚に障害のある人の手伝いをするよう専門に教育された犬で、落ちたものを拾ってくれたり、携帯電話を見つけ出して持ってきてくれたり、冷蔵庫から飲み物を出してきてくれたり、靴下を脱がせてくれたりする。
犬種はプードルやパピヨンなどの小型犬もいるらしい。

「犬がうちにいてもいいかなあ。きゃんきゃん吠える、こうるさい犬が中学に上がって部活動をして帰ってくることになると散歩の余裕も出るし」と考えなくもない。小型犬もありということを聞き、ペットという発想ではなく、このような犬の子犬の里親(パピーホーム)になる選択もあるのかと思った。もっとも仕事で忙しくしているのでは、散歩やしつけの暇がなく、とてもそのようなボランティアの資格はなさそうではあるけれども……。

仕事から戻ってすぐ駆けつけたもので、遅刻してしまい、「いろは」がオスかメスか何歳かも聞くのを忘れ、せっかく携帯電話に収めてみた写真も実はバッテリー切れ直前でピントがぼけてしまった。残念。

硬貨やカギという細かいものを拾ったり、高速道路の発券機から券を取ったりという犬のデモンストレーションに感心させられた他、協会職員の人の話になるほどと思えることがあった。
技術開発が進み、物が便利になる。たとえば携帯電話が薄くて軽くなるのは健常者には便利この上ないが、小型化することでかえって障害者には持ちにくくなったり扱いにくくなったりすることがあるというのだ。
読みきかせの活動で障害者と関わることもある。ましてや『介助犬ターシャ』でその存在を知っていたので出かけていったが、介助犬だけでなく、改めてバリアフリー、ユニバーサルデザインなどについて考えさせられた。

障害というのは他人事ではなく、たとえば年を取って膝が弱くなる、腰を痛めるなどといったことはよくあることだ。高齢化が進んでいくということは、現在介助犬を必要としている人が15000人であっても、いつそこに自分が加わってもおかしくはないということである。
『介助犬ターシャ』では女子刑務所の受刑者が介助犬の訓練をしているということに驚かされた。米国はあまり好きな国ではないが、見習うべきこともある。



【No.952】キングに見せたい怪優ペアの力演(3)…10月23日

『ミザリー』というこの芝居、とても意外だったのは「渡辺えり」と「小日向文世」のバランスだった。
観る前は、渡辺えりさんがパワー全開で、憧れの作家相手に思いを募らせる余り精神に破綻を来していく狂女を好き放題に演じ、それを静かなる男というイメージの小日向文世氏が「受け止めていく」「吸い取っていく」感じだろうと思っていた。ふたりの役割が6対4ぐらいではないかと何となく考えていた。
最初のうちは、やはりその通りに進行していった。しかし、終盤にさしかかると、このバランスが徐々に逆転していく。

(この先ストーリー割れ御免)行き過ぎたファン心理のあまり、作家ポールを自分の巣にひっ捕らえたまま世話を焼くアニーは、自分の意に沿う物語を彼に執筆させようとする。
そこに自分の命がかかっていると分かったポールは、自らの延命のために不本意な作品を書くことにし、書き上げたものを少しずつ朗読してやる。だが、読んでやる「つづき」がなくなってしまえば、それがこの世の終わりだという認識があるので、なかなか物語を終わらせようとせず話を引き伸ばしていくのだ。

そのあたりになって、作家ポールの方も気を狂わせていくのだが、芝居のなかで一番おっかなかったのは、この小日向氏の演技であった。
以前観た映画版の方では、ラストがどういうものだったか忘れてしまうほどにアニー役のキャシー・ベイツが怖かった。うろ覚えだが、確かベッドに横たわるポールの足元に包丁をいきなり突き刺すような場面があり、前半のアニーによる虐待シーンの怖さばかりが印象に残っている。
キングの原作に対し、映画の脚本がどう書かれたのか、芝居の脚本がどう書かれたのかはよく知らないが、この後半になって作家が正気を失っていく、その異常心理の方に重きを置くというのがおそらくキングの意図なのではないかという気がした。

しかし、正気の人間が狂っていく様をより強く見せるためには、やはり前半の狂人がどれだけ狂っているかというところをしっかり見せておくことが大切なのだ。このバランスを50対50にするからこそ、この二人芝居は生きてくる。
小日向氏の狂いぶりは実に薄気味悪いものであった。おそらく「常人でも、ごく自然にこうして狂っていくのだよ」というところを実際に見せつけられたことが、体をぞくっとさせられる大きな理由だったのだと思う。
「常人が狂っていくこともある」ということは、これまで読んだ本のなかで何回か触れてきたことであり、当然の事実のように認識していたつもりだったが、それを芝居とはいえ、目の前にたたきつけられたためにぞっとした。超常現象ではなく異常心理ならではのホラーを仮想現実として体感させられてしまった。

存在感の強い役者がひとり立つ名舞台というのは、「ひとり」であるがゆえに実現する機会はそう珍しくはないと思う。しかし、2人の役者の実力が丁々発止で渡り合う舞台というのは、めった実現しないのではないだろうか。
私は芝居にはあまり詳しくはないものの、それでも勝新太郎、美輪明宏、平幹二朗、山崎努といった名優たちの舞台も一応観たことはあって、状況劇場、天井桟敷といったアングラや小劇場も少しは観たことがあって、その僅かな観劇体験から推し測るに、この怪優2人の組み合わせは秀逸だ。
おそらくシアターアプルではこれからも数年に一度公演されていくものと思われる。渡辺えりさんの愛らしくもぶち切れた、体を張った演技と、小日向氏の人当たりの良さが不気味に歪んで行く演技が、今後さらなる円熟をどう見せていくかは、日本の演劇界にとって見逃せない歩みの1つになることと考える。



つづき…10月15日

『ミザリー』のつづきやら、おはなし会活動やら、いろいろ書きたいけれども、芝居を見に行ったシワ寄せかっ……またしばらく自由時間が取れない感じ。



【No.951】キングに見せたい怪優ペアの力演(2)…10月11日

衛星放送で映画『ミザリー』は見たことがあるが、スティーブン・キング原作『ミザリー』は読んだことがない。察するに、ホラーを始めとする小説のベストセラーを次々と世に送り出しているキングにとって、売れっ子ロマンス小説の書き手を登場させたこの作品は、いたずらやメッセージ、「こんなものさ」という本音や「読者に分かってたまるか」という韜晦など、いろいろな要素を盛り込んだ意欲作に違いない。

女性向けの軽い読み物シリーズ『ミザリー』で人気作家となったポール・シェルドン(もちろん、シドニー・シェルダンを意識していますよね)は、自分の書いているものにいい加減うんざりしていて、文学の世界で立ちたい、芸術家として認められたいという野心を持っている。そこで、いつも執筆に使うホテルで缶詰めになって、「意識の流れ」の手法を駆使した文学作品をようやくの思いで完成させる。
完成作をエージェントに届けようと雪嵐のなか車を走らせている途中で、ポールは崖から転落してしまう。意識不明状態から目覚めると、そこは荒野の一軒家、家畜たちと暮らす元看護師アニーの住まいだった。足に重傷を負い歩行が困難なポールは、奇跡的に命を取りとめたことを聞かされ、アニーの看護を受ける。『ミザリー』の熱狂的な読者であるというアニーは、痛み止めの薬をポールに与え、かいがいしく世話を焼く。
ところが、病院に連れて行かない、エージェントに連絡を取ってくれないと不審なことがつづく。ポールは、次第に自分がアニーに監禁されていることに気づいていく。
ある日、町に食料を仕入れに行ったアニーは、楽しみにしていた『ミザリー』最新刊のペーパーバック落ちしたもの(ハードカバーで出たものではなく)を入手して、大喜びで読み始める。ところが、主人公ミザリーが死を迎えて物語が終わったことを知ったアニーは逆上する。
そこから、アニーのポールに対する拷問が始まり、それがエスカレートするにつれてアニーの精神異常ぶりがますます昂じ、ついにはアニーだけのために、ポールは『ミザリー』の新作を書かされる破目になる。

改めて考えてみると、これは芝居の本として、申し分のない設定である。映画では他の登場人物もいたが、サイモン・ムーアの脚本は完全な二人芝居に仕上げられている。場面をほとんどベッドの置かれた部屋に絞ることにより、サイコ・スリラーにゴシック味を加え、密室のなかにたまっていく異常性、歪んだりたわめられたりしていく個人の精神、想定を超える推移を見せる二者の関係などを際立たせる効果を生んでいる。

このような話で、小日向さんに渡辺さん——面白い展開の脚本に、ぴたりイメージが合った見事な配役で、これで楽しめないはずがない。成功が予定調和として約束されているような舞台ではないか。私は単純にそのように考えていた。

小日向文世も渡辺えりも、お茶の間ですっかりなじみになった役者である。小日向文世は朝の連続テレビ小説にもNHK大河ドラマにもよく顔を出すし、地上波で放映された映画『三丁目の夕日』(寅さんや釣りバカシリーズのように育てられていくはず)では、全員が善人という設定のなかで唯一の悪者を演じ、忘れ難い印象を残した。
片や渡辺えりも朝ドラ『おしん』で国民的女優として人気が出た上、何回も地上波で放映されている『Shall We ダンス?』の強烈な役柄でポピュラリティをよりしっかり固めた。
ところが、やはりこの2人は舞台出身の根っからの演劇人なのである。生の舞台に接して、その底力をまざまざ見せつけられた。そういう比較もあまり意味ないかもしれないが、テレビや映画でモデルやお笑い芸人、元スポーツ選手がちょっと芝居にも挑戦してみた、それで人気が出たというのとは気概が違う。もちろん演出の仕方ということもあろうが、発声や仕草、掛け合いのタイミングなど、演技がこれほど本の魅力を高めてしまうものなのかと思えるところが随所にあった。
 
怖いのは何も超常現象ばかりではなく、人の内面に宿り、どう転じていくのか分からない狂気である。そして1つの強烈な狂気が顕在化したときに、それが他者に連鎖的に呼び起こす新たな狂気である。このような狂気を私たちは現実の至るところに容易に見かけるようになった。あるいは、それは昔から、いつでもどこでも容易に見られたものなのかもしれない。
この人知を超えたところにある、それでいて身近な狂気というものをおそらくキングは描こうとしたに違いない。作家とファン、つまりカリスマと信奉者というありきたりの装置を使って……。
それをいかに表現するかという目的の下、発声や仕草、掛け合いのタイミング他がどれぐらい練られたのかは知る由がないけれども、怖い話だからぞっとするかもしれないと見に行った芝居で、2人の役者の役者魂ともいうべきものにぞっとさせられてしまった。
<つづく>



【No.950】キングに見せたい怪優ペアの力演(1)…10月10日


本日、新宿はシアターアプルで、2005年初演につづく小日向文世・渡辺えり(本公演より「えり子」改め)『ミザリー』の楽を観る幸運に恵まれた。
先日、南塚直子さんの原画展に出かけたとき、赤坂見附の駅でポスターを目にしたのだ。
「ああっ、これ、やるのか!」と驚き、帰ってすぐネットで検索。前半分の公演はすでに売り切れていたが、後半分がまだ取れたのだ。しかも、信じられない割引価格だったというのに、10列目の真ん中という、舞台を観るには実に良い席が取れたので驚いた。

東京公演はきょうで終わったが、これから全国を回るらしい。
このweblogは、有難くも北海道から沖縄、そして海外からもアクセスがあるので、私のような幸運に出合える人がもしかするといるのではないかと思って宣伝部長を務めさせてもらうつもりで紹介。
でも、おそらくすでに売切れなんだろうな。
13日(土)所沢市民センター
15日(月)まつもと市民芸術館
17日(水)福井は敦賀の市民文化センター(おお、昔住んだことのある町だ)
18日(木)兵庫は西脇市民会館
20日(土)下関市菊川ふれあい会館
22日(月)富山の南栃市井波総合文化センター
25日(木)山形市民会館
27日(土)山形の川西フレンドリープラザ
山形は渡辺えりさんの出身地
そして小日向文世氏の出身である北海道公演
31日(水)〜11月2日(金)札幌市教育文化会館
ブロードウェーでの海外公演はまだ予定がないみたいだが、いつそういう話があってもおかしくはない気がする。

初めてこのキャスティングを聞いたときに、あまりの見事さに思わず笑いが出た。そして、実際に観てみると、予想を上回るすごい舞台だった。おいおい感じたことを書いていくつもりだが、少しでも行けそうな可能性がある人は早く動いてみてください。再々演もあるに違いないと踏んでいるが、両怪優とも、脂がのっているというか何というか、素晴らしいコンディションだと思えた。

休憩時間にロビーでコーヒーを飲んでたら、何かカリメロみたいなヘアスタイルの男性がいるなあ、と思って、あとでよく考えてみると、野田秀樹氏だった。
芝居には関係ない話だが、有名人の回りって、なぜか人が引く。皆が遠巻きにして見るような感じが不思議さね。劇場で有名人を見かけることは別に珍しくなく、紀伊国屋で天井桟敷を観たときは亡くなる直前の寺山修司を見かけたし、蜷川幸雄の舞台を見ていたら、並びの席に途中で入ってきて掛けた男性がいて、「けしからん」と思ったら蜷川氏本人だったり……。
芝居ではないけれども、ホロヴィッツのコンサートでドレスで盛装の黒柳徹子さんを見たり、テレビ局の収録に立ち会ったとき、化粧室で松田聖子(新人のころ、声が割れ始めたぐらいの時期)に出くわしたり……。酒場でも何人かの芸能人を見かけたことがある。私の場合、「あれれ〜」ぐらいで反応がかなり鈍いのか。PTA仲間のきれいなお母さんたちとランチするときの方がかえってドキドキする。
<つづく>



【No.949】雑記あれこれのつづき(2)…10月8日

◇紹介が後ろ手、後ろ手に回ってしまい、「お客さまを呼び込まない使えない自分」が情けない。
9月30日(日)に、(社団法人)家の光協会が主催の「読書ボランティア養成講座(千葉の市川会場)」にスタッフ側で参加してきた。

絵本作家・正岡慧子氏の講義、日本児童文芸家協会所属の作家グループによる研修に続き、参加者がグループに分かれ、私たちJPIC読書アドバイザーが入って実技研修をしたのである。
参加者全員が持参の絵本を読み聞かせしてみるという大きな目標があったので、100円ショップで急遽買い求めたタイマー(これ、子どもが過去問やるのにも使えますわ)で、おひとり様2分45秒ずつという公正なタイムキーパー役が主な業務。絵本を読むのにタイマーはないだろうと言わないでほしい。事情が事情なので……。

初心者・経験者混ぜてのグループだったが、ボランティアに対する意識のある方たちばかりだからなのだろう。よくありがちな「私がやる、私がやる」的自己表現の場と化さず、皆さん、人に本を読んで聞かせるとはどういうことなのかをよくつかんだ上で、ゆったり心地よい声で読む。そのため、こちらが勉強させてもらってばかり。15人の方が読まれたので、15冊の絵本を楽しむことができた。
できればおひとりずつ「どういう活動をしているのか」「その活動に課題はあるか」などじっくり話を聞いてみたかったが、限られた時間だったこともあり、ストイックに本の持ち方・読み方、発声や表現の仕方など、技術面の確認が中心となった。
「聞いてみたかった」と書きつつ、自分の余分なコメントが結構多かったかも……とも思わないでもない。

家の光協会はJA関係の社団であるが、展示されていた刊行物の農村向け雑誌をちらと見ると、以前のイメージと違って、とてもおしゃれ。園芸がガーデニングと言われるようになったような感じで、農業の捉えられ方が変わってきていることを感じた。
このイベントは、前日からつづいていた「読書フェスタ・千葉」の一環であり、29日には阿刀田高氏の講演もあったのだ。阿刀田邸に伺い、有名な書庫を見ながら素晴らしい話術に魅了されたことがある。短篇の名手だけでなく講演の名手でもあるので、ぜひ聴講したかったが、参加できずに残念。

講演は当たり外れが多い。このぐらいの話ならば家で本を読んでいた方がよほどましだったと思わせられることもままあるが、阿刀田先生の場合は、話の幅が広く、いろいろな切り口のテーマでの講演ができ、得る所多い話なので何回聞いても良い気がしている。

◇きわめて自分らしい話もひとつ。ずいぶん涼しくなったが、この間、最後に「夏の悪あがき」という感じで暑くなった日の夜のこと。
出かけようとして玄関を開けて閉めたところで、隣地との境にある壁のところにゴキブリがいるのを発見。
ことしは、化学薬剤を一切使わない「BIMA(ビーマ)」というヒノキ、ヒバなど自然由来のエッセンスの虫除けをあちこちにまいていたら、家のなかではゴキブリを1匹しか見なかった。この虫除けの匂いは、よく考えてみると、温泉に行くと脱衣場でよく匂ってくるものだ。おそらくそういう場所で虫が出ると大きなクレームにつながるから利用されていることと思う。

虫除けはさておき、珍しく見かけた壁のゴキブリは高さ50センチぐらいの丁度良い按配のところにいたもので、「おのれっ、回し蹴りで仕留めてくれようか」と足を上げかけたのだが、とっさにサンダルを見て、やめた。
サンダルはもうかれこれ5年ばかり愛用しているClarksの製品。最近靴店であまり見ないもので、「汚してしまって代わりを買えないとまずい」という考えが一瞬よぎった。よぎったすきにゴキブリに逃げられてしまったのである。
ちなみにClarksのサンダルは何が良いかというと、素足ではいて足の裏が汗ばんできても、ねちねちしてこない。何の素材でできているのか知らないが、はき続けても臭いがつかずさっぱりしているのが優れている。

これが何だという話なのであるが、最近一番興奮してテンションが上がったのが、その瞬間だったもので……。

◇じゃっ、今から夜なべに入ります。



【No.948】雑記あれこれのつづき…10月8日

◇きのうの朝日新聞読書欄に小さく紹介だけ出ていた『ワーキングプア 日本を蝕む病』(ポプラ社)を2週間ばかり前、仕事仲間に借りて読んだ。NHKスペシャル取材班の番組取材記録である。
この本、Amazonの評を見ていたら何か酷いことになっていて、Amazonの読者レビューって、ああいうものなのですか。人のこと言えた義理ではないが、何かこう、大切な部分が蝕まれていく気にさせられた。
それとは別に、仕事関係のこともあり、読んで知っておいて損はないプアの事例がいくつか並んでいたわけだが、暗澹たる気持ちにさせられる内容であった。

醇I醇INHK醇Iこのアイテムの詳細を見る
いざ、Amazonへ!

ワーキングプアというと「ネットカフェ難民」、それに近い状態にあるフリーターなどが強くイメージされる。けれども、そういった若者世代だけでなく、集団主義から功利主義へと転換した日本経済の行く末として自然に生じた産業の空洞化、つまり新古典派経済学の理論を借りて推し進められた「規制緩和」「小さな政府」「自由放任主義(レッセフェールでいいんだっけか?)」といった経済政策の諸々の犠牲者の労働実態、生活状態がレポートされていた。
「経済主体は個人の判断で合理的、且つ合目的的に行動する。そのような本性を当てにして勝手に競争させておけ」という理論と私は解釈しているが、「それをやっちゃあ、こうなるよね」と、当然の成り行きとも言えよう(聞きかじりで、経済理論、あまりよく知らないけれども……)。

経費削減を伴う価格競争でしめつけられた商店主や中小の製造業者など、ノウハウや技術を持つ人たちの困窮ぶりがいたたまれない。
また、「小さな政府」は、産業面であおりをくらった人びとだけでなく、親から受け継いだ古い家屋(手放そうにも過疎地では売れないだろうし)に住んでいるがゆえに生活保護を受けられない中高年の失業者、子どもが18歳に達して公的扶助を受けられなくなったシングルマザーたちなど、福祉面であおりをくらった人たちも大量に生み出した。これには、人ごとではないものがあった。
仕事仲間たちも皆、「夫に何かあったら自分たちの経済力では暮らして行けない」「大学生の子どもがうまく就職できるか」「就職できても、神経を病む人たちが多く(非正規雇用が減ったために、正規雇用社員の負う責任は重くなったことであろう。実際、金融関係の総合職なんて、支店勤務になると自分と同じ立場の女性がいなくて大変と聞く)、フリーター化しないか」といった具合で、考えると心配になってしまう、誰も安穏としてはいられないという見解であった。

国産品と言われる工業生産物が実は中国から来た労働者たちの考えられない低賃金に支えられているということも、私には「そうか、そういうことになるのか」とショックであった。
100円ショップで物を安く便利に買い求めることがあるが、それにより、海外で安く生産された物の需要を増やす。そして国内業者を締め付け、国内の産業従事者の経済力を弱らせるという、常識ある人には今さらの話だろうが、ひどい循環だなあと改めて思う。長持ちしない使い捨ての物を買って一時的に間に合わせるが、それ、結局、環境問題、ゴミ問題にもつながるし……。
工業だけでなく、農業が一番やばいよと農林水産省の役人が以前どこかに書いていた記憶があるが、高齢者が元気に支えている第一次産業も、あと10年ぐらいすると、相当深刻な問題が出てきそう。

◇深町真理子さんが訳しているというので、光文社古典新訳文庫の新刊『野性の呼び声』を読んでみた。数年前、同じ作者ジャック・ロンドンによる『白い牙』(新潮文庫)を読んだが、『野性の呼び声』は初読。

『白い牙』書評はこちらから。

しかし、この作品は私にとってとても大切な作品である。どういうことかというと、記憶に残る限り、一番最初に映画館で見せられたのが(追記:調べてみたら、一番最初ということはなさそう。それ以前に「嵐が丘」を観ているような……)「野性の呼び」という映画だったからである。地方転勤中のことであったので、たぶんディズニーのアニメと2本立てだったと思う。この映画は筋をすっかり忘れていたが、犬がきゃんきゃん、きゃんきゃん吠えながら、そりを引く仲間に喰いついているシーンを妙に生々しく心に刻み付けていた。

小説として読んでみた『野性の呼び声』もやはりすごい迫力。ジャック・ロンドンはホーボーと呼ばれる放浪者体験もあり、岩波文庫で出ている社会の底辺を生きる人びとのレポート『どん底の人びと』を書いた社会主義信奉者でもあった。そのような広い視野から、社会と自然が対照的に考察されている要素もあり、また、自然と社会が重ねられて考察されている要素もあり、そうかといって風刺臭くなく、自然の荒々しさや躍動感が十全な劇的要素で描き切られていて素晴らしい。
前に何かの本の書評に書いたけれども、ウィリアム・フォークナー『熊』(岩波文庫の短篇集に所収)も相当部分、影響を受けているのではないかと思う。いや、その、フォークナーがロンドンに倣ったという意味ではなく、もっと抽象的な意味での影響。
<つづく>


【No.947】雑記あれこれ…10月7日


◇おとといbk1に予約していたレイ・ブラッドベリ『さよなら僕の夏』(晶文社)が届いて、きのう某所での待ち時間に読んでしまったのだが、それに先立ち、読み直しておこうと思った『たんぽぽのお酒』をどうやら紛失してしまった。
カバーから外して本体だけ持ち歩き、最初の方を読み進めており、「いかん。これってこんなにかったるい感じであったか」とちんたら読んでいたのがいかんかったのかもしれない。
『さよなら僕の夏』の方にはちくりと来る言葉があって、そう悪くはなかった。
『たんぽぽのお酒』は通いの仕事先に置いてきたのか、だとすると今机のレイアウト替え工事をしているので出てこない可能性もある。もしくは、スーパーで買い物袋に食品を詰めた際、ひょいと出してしまったのか、あるいは家のなかの意外な場所から出てくるのか……。
『たんぽぽのお酒』の続編『さよなら僕の夏』のせいで、『さよなら僕のたんぽぽのお酒』になってしまったかもしれない。

◇早回しのフィルムのように日々が飛んでいく。日記をその日につける暇がない感じなので、さかのぼり日記。
9月30日には、青山のPIGA2という画廊で絵本作家・南塚直子さんの新作『やまぼうし村のピッキ』(理論社)の原画展を見る。
この画廊は表参道の同潤会アパートに入っていたものだと思う。今は表参道ヒルズという変な建物になっているみたいだけれど……。昔、その古いPIGAの寺門孝之氏個展で絵を買った記憶がある。

南塚さんとは久しぶりにお会いでき、この本のための銅版画をゆっくりゆっくり1年かけて作ったと聞く。前までの作品にはサルなど出てこなかったと思ったので、山の家の方で見かけるのかと思って「サル、出ますか」とうかがうと、やはりいたずらザルをよく見かけるらしい。サルは結構楽しみながら描かれたようで、出来にも満足ということ。
制作時のことを他にもいろいろ聞いていた。「シャガールとかミロの境地に達しちゃいましたね」と感想を述べていたのだが、このような境地で制作するのは意外にも大変なようなのである。
自分のなかの負のものを抑えながら明るく楽しいものを描くようにしているけれども、負のものが思わず絵に出ることがあるという。どういうことなのかが分からなかったので「モチーフにですか、色にですか」と尋ねると、「形に……」という答え。それは「線の歪みのようなものか」と聞き返すと、そうだということであった。
南塚直子さんという方は、今まで会った女性のなかでもダンチに勘と感性鋭く、頭の良い方でありながら棘のまったくないふうわりしたお人柄なので、「線に歪み」という話はとても意外であった。

◇『やまぼうし村のピッキ』の装丁は、今とても売れっ子の大久保伸子さん。三崎亜紀『失われた町』やら、東雅夫プロデュース『てのひら怪談』、田辺聖子『私的生活』の新装、それに川上弘美作品も何か手がけているみたい。
見返しの小花のレイアウトやら、薄緑のトレーシングペーパーの帯やら、南塚さんも大変気に入っているということだったが、とてもきれいな本に仕上がっている。

◇『やまぼうし村のピッキ』原画展で、武蔵野市の元市議である三宅えい子さんという方と出会い、一緒に井の頭線で帰ってきた。ファッショナブルで雰囲気のある人で、雑誌『クロワッサン』世代のイメージであり、政治家という感じではまったくない。
話を聞くと、すごいことを成した人で、武蔵野市長が外で使うべき交際費を長年の任期中、市職員たちと使うようなことをしていたのに対し、住民裁判を起こしたという。それが最高裁判決で勝訴判決にまでこぎつけたのだ。それは数万円のこととはいえ、全国に判例の裁判だったというのだが、弁護士を立てずにひとりで勉強して勝ち取ったという。
興味があるものだから、いろいろに尋ねるわけだが、その手の話を「きのうお芋を煮たらおいしくできて……」というような調子で答えてくれるので、「はあっ、大物」と思った。
例の各自治体職員による年金ネコババ事件、舛添要一氏が「泥棒を訴えないでどうする」とズバズバやってくれて気持ち良いわけだが、当然のことに政治家が真っ当に取り組んでいく自然さが両者は似ている。
政治家というのは、このところ「国民の信用を回復する」と言いつつ、みな要職につくわけだが、従来はそのポストで果たす役割のためにつくわけであって、信用回復というマイナス補填が最大の務めとなっている政治の常態は異常だろう。

◇今の40代、50代ぐらいの人間は、この舛添要一、猪瀬直樹、田中康夫といった言論の場でたっぷり仕事をしてきて「正論」を大事にしてきた人たちが、どれぐらいやってくれるのかという期待が高いと思う。
舛添氏はお母さんの介護をしていて一時論客としての仕事から遠ざかっていたことがあり、それで厚生労働担当に起用されたようだけれども、元々は国際政治学者。しかし、どこか外務大臣というより、国内でたっぷり汗をかいてもらった方が良いと思える印象がある。
<つづく>



【No.946】ミッションきっとパッシブルのつづき…10月3日

しかし、そのような危機にあるとき、何よりも力強く自分を支えてくれるものは自分が選んだ「本の力」なのである。「それをきちんと読めば必ず伝わる」と信じることである。
そしてまた、その瞬間の信念をさらに強固にしてくれるのは、この本の背後にある優れた本たちの力なのである。つまり、自分がこれまで読んできた本、ときには読み解いてきた本による体験が信念の源をさらに深いところで支えてくれる。
あれだけの(一生に読める本の量などたかが知れているが)本を読んできた体験が読み手たる自分に結晶していると思えばこそ、その場にふさわしい読みに徹することのできる自分でいられるのである。それは自負というものとは異なる。化学反応で言うところの「触媒」とでも言えばよいのか、そのようにして本と聞き手のあいだにいられることこそが、つまりミッションなのである。

ちょうど読み終えたとき、ぼうやのパパとママが戻ってこれた。
「あーあ、パパとママったら、一番面白いところを聞き逃しちゃったね」と言いながら、ぼうやと一緒にご夫妻に粗筋を説明した。
胸の内で思いはどくどくしているので、いっそその絵本は贈り物にしてもよいのだが……とは思ったが、それはやめる。よく分からないが、そのように特別なことをしてしまうのはボランティア失格だと私には思えるからだ。一時の情に流されるような甘い者は、もうそういうことをする資格はないのだと思える。本を人に読むことにも、ボランティアに参加することにも、常にそのような葛藤がある。
どう振る舞うべきか、その場ならどこまでやって許されるのか、常に自己チェックを行うとき、禁欲的であること、自己顕示や自己表現などについての闘いが常にある。

リラックスしてもらうだけで、あまり体力を使うようなことをさせてはいけないので、ごく短いものをあと1冊がやはり適量と判断した。
それで始めに考えた通り、『おならうた』谷川俊太郎・原詩/飯野和好・絵(絵本館)を今度こそ一家で楽しんでもらえないかと読み始めた。
見開きごと「いもくって ぶ」「くりくって ぼ」と展開していくおならのバリエーションで「こっそり す」などという画面もある絵本だ。
始まる前に「お母さんみたいにきれいな女の人は、おならなんてしないし、トイレも行くかないんだよ」などと軽くしゃべりながら始めてみる。そして改まったような調子で、おごそかに「いもくって ぶ」とやるのである。
病室はしばし笑いに包まれた。最後におならの音だけが「ぶ」「へ」「ぴょ」と踊っている画面があるのだが、そこは思いつきで「さあ、ごいっしょに」と誘い、皆でゆっくり発音した。
お別れの言葉はガッツポーズで「がんばれ」とひと言。ベッドの上の勇者はにっかと笑い返してくれた。



【No.945】ミッションきっとパッシブル…10月3日

サーバー不具合で吹っ飛んでしまった8月末の記事に、脳に障がいのある10代半ばの人、20代の人に読みきかせしたことを少し書いた。なかなか本に目の焦点を合わせられない相手にどういう本を読んだのかというと、音や言葉に面白い工夫のある絵本だったという内容だったが、実はきょうも、それと同じぐらい厳しい現場で読みきかせボランティアを行ってきた。
私がボランティアを行っている場所は、聞き手のプライバシーの問題もあるので、ここにあまり大っぴらに書いてこなかったが、いろいろな施設を含めた医療機関である。たまたまわが子を出産した場所でもある。そのなかのさまざまな場所で諸状況に対応しながら活動をしている。

きょうは、少しわけありのお子さんたちが暮らす施設の方で最初に活動したあと、病室の方へ回った。そこでコーディネーターの先生(保育士資格者)に「ちょっと中村さん」と声かけられ、急に手術が入ったお子さんに何か……ということを申し渡された。
どういう病気でどういう手術なのかはまったく知らされない。こちらも当然そういう質問はしない。

難しいのは選書である。場所柄、そこにどういう年齢や状態の子たちがいるのか、その日行ってみないと分からないのである。
この季節にふさわしい絵本、最近見つけて気に入った絵本などを何冊か自宅から携えて行き、あとはこの医療機関での活動用に揃えられたワゴンにある何十冊かを組み合わせるのだが、そのワゴンは同じ時間に他の場所を別のスタッフが巡回させているので、朝行くと、そこから数冊だけ抜き出すぐらい。つまり全部でせいぜい10冊弱をコマとして、対応しなくてはいけない。
しかし、きょうの場合、コーディネーターの先生に「2冊ほど」と言われてとっさに「これで行こう」と思えるものが手提げ袋にあった。
「明るい本を楽しく読んできます。まったく別のことを考えられるようにしますね」と言うと、「そうしてください」と先生が笑った。

パパとママも付き添っていた。
1冊めの本を読みはじめて「よかった」と思った。ちょうど同じような年ごろの「ぼうや」が主人公のお話なのだ。読みきかせをする人たちのあいだではよく知られる『わゴムはどのくらいのびるかしら?』(ほるぷ出版)という翻訳本である。
前にここに学校の教室で読んだことを書いた気もするし、書店では輪ゴムの簡単なマジックを絡めて読んでいる。いつの季節でも行けるが、月が出てくるので秋に利用することが多い。
「ぼうや」の話だというだけではなく、ちょうど按配よく、それはベッドから始まる。宗教は持たないが、何をやるのかを知らされたときに「ミッション」を感じ、持っていた本に天の配剤を感じずにはいられなかった。

輪ゴムがどのくらいのびるか知りたくなったぼうやが、ベッドの枠にはしをひっかけ、外に出かける。自転車に乗り、バス、電車など乗り継いで移動していっても輪ゴムがまだまだ伸びて行くという内容で、ついにはロケットで宇宙にまで飛び立つ。
家族はすぐに面白さに気づいてくれ、パパが自然にぼうやに語りかけながらの出だしであった。
しかし、急なことだから仕方ないのだろう。医療スタッフが途中で部屋に入ってきて、パパやママに話しかけた。ベッドサイドを離れ、「麻酔」「輸血」などという言葉が小声とはいえ聞こえる状態になった。
これは笑顔とともに本を読む私にはなかなかの任務となったわけだが、目の前のぼうやにとっては、せっかく一緒に楽しんでいたパパ、ママが席を立ってしまい、寂しい状況となった。何もなかったかのように読み継ぐのは実に厳しいものであった。
<この項つづく>



【No.944】南回帰線から来た美女…9月27日

【No.943】で1日6回の外出と書いたが、その1回目は、大変に美しい外国の女の人と40分ばかりを過ごした。快楽に溺れたとか何とか、その手の話ではない。用事をいっしょにこなしただけなのだ。
しかし、顔も形も美しくセクシーで魅力的な人で、くるくる変わる表情やら、胸やら腰の線の完璧さ加減を見るともなしに見てしまうと、「まずい。これはかなりやばい」と、同性なのに思わずとぐろを巻いてしまいそうな美しさなのであった。
モデルか女優でもしていた人なのだろうか。たっぱは(失礼!…身の丈は)私も同じぐらいなのだが……。

そういう人を相手に何を話そうかと若干、気後れを感じていた。しかし、私は今は昔、有名人の何人かに会ってインタビューをして記事をまとめるような仕事をしていた時期もあったし、いろいろなものを編集した経験があるわけだから、初対面の人と話すモードは持っていないわけではない。……と、自分を奮い立たせる。
外国人とはいえ、彼女は日本語ペラペラで、しかも正確なイントネーションやリズム。エレガントな印象もある容姿を裏切らない、気品ある美しい日本語を話す。
とりあえず当たりさわりない気候のことを話しているうち、ブラジルの出身であることを知る。それでもう十分なのであった。というのは、相手のプライバシーを聞くのが案外苦手で、1日に1つか2つぐらいしかプライバシーを知る質問はできないからである。
陽気の話の流れだったと思うが、「どこの出身なの?」とようやく聞いて、それがブラジルのどのあたりかを聞いて、この日の質問は限界に達したと思った。
「ご主人はどういう仕事をしているか」「どこの学校の卒業か」「いくつなのか」「実家の家業は何か」などといったことを聞くのは警察か興信所みたいで気が進まないのだ。その人の個性に関すること、例えば好きな食べ物やら趣味などに関することならばよい。極端な子ども時代を送った人でないならば、「子ども時代に何をして遊んだか」というような質問も糸口がつかめますですよ。

ブラジルでも北部(北部になっちゃうんだよねぇ、南半球って不思議)のアマゾンのあたりと違って、四季の変化のある土地に生まれたということで、彼女は故郷の豊かな自然を目に浮かべているかのように自然志向の話をするのであった。
「日本に来て、初めて雪を見て泣いちゃった。感動して……」などと、きゅんとするようなことを言うのが、またかわいらしい。だんなさんは人生を極めているよなあと思う。
「雪のことは、何で知っていたの? おはなしの本?」と尋ねると、「ううん。映画」
そうか、そうか、映画か。
ブラジルといえば、こちらの頭にはサッカーとボサノバとアイルトン・セナぐらいしかないわけだが、教養人もどきの矜持は、ストレートにそういう定番のイメージで話しかけることを許さない。

自然の話から、ふっと思いついたのか、彼女は「これほど地球温暖化の問題が深刻なのに、テレビで毎日報道しないことが信じられない」と急に言い出した。「京都の、あの約束を守らないで……」などとも言う。
京都議定書のことも勉強しているのか、意外だと思ったら、地球環境問題に関するDVDを見たばかりらしい。
「アメリカはビジネスが大事。ビジネスを大事にしていたって、地球がどうにかなってしまったらビジネスどころではない」と割にラディカルになってくる。どうやら、私と同じぐらいアメリカが嫌いなようだ。

「あなたの国ならば、アメリカに対する思いはいろいろあるでしょう」と矛先を向けると、うんうんうなずいている。
「そうそう、ブラジルと言えばバイオエタノール……」と話を振ると、面白いことを教えてくれた。
ブラジルでのバイオエタノールの普及率が高いことは知られている。最近は世界的なバイオエタノールの需要でトウモロコシ価格が高騰しているという情報が頭に少しあったのだが、このバイオエタノールは最近の技術と思っていたら、そうではないということなのだ。
今はこのようにバイオエタノールの価格が上がってしまい、お金持ちが利用するようなものになったが、彼女がブラジルにいたころは、バイオエタノールは貧しい人たちが利用するものだったという。つまりガソリンを買えない人が代用していたものらしい。酒が手に入らず、メチルアルコールを飲んでいたとか何とか……、それに似ているのかもしれないね。

「ダサい?」
彼女は、それが的を射た言葉なのかどうかを確かめるようにこちらをうかがう。
なるほど、なるほど。バイオエタノールを車に入れなきゃいけないような人は、しみったれた感じでカッコ悪くて、とても彼女のような人に「乗らない?」と誘えなかったのだろう。「ダサい」という言葉を自分が使ってはいけないというコードを持っているのも素敵ではないか。
物の価値が時代によって変わって面白いということで、深いことを考えるきっかけも与えてくれ、南回帰線から来た美女はすごい人なのであった。

[解説]何で色っぽいことを書いたかというと、南回帰線で『南回帰線』(水声社/講談社文芸文庫)というヘンリー・ミラーの小説を思い出したから……。そういえば水声社から出たヘンリー・ミラー・コレクションに『マルーシの群像』というギリシャ紀行が入っていて、読みたい、読みたいと思っていて読んでいない。アレクサンドリア四重奏のロレンス・ダレルとの交流についての記述もあるらしい。



【No.943】月夜のタヌキ…9月25日

いや、この表題、別に新しい内閣について云々するものではないっす。

きょうは家を出たり入ったりが、子どもの夜間の習い事の迎えで実に5回目を数えてへろへろなのだが(ちなみに4回目が弁当の届け。へろへろだけれども、15分ハーフでサッカーのゲームをやるよりも遥かに楽だとは思っている)、その帰り道、「会えるといいな」と思っていた、世田谷は大原の緑地を根城とするタヌキに会えた。
隣接地で大きな建物が取り壊され(その建物で昔、うちの父母が結婚披露宴を執り行ったらしいが)、音と粉塵がひどかったものだからタヌキの5匹家族もとんと姿が見えなくなっていた。それが、どうやら元の巣に最近舞い戻ってきたようなのだ。

この2週間で3回ぐらい遭遇している。息子と通る時間に決まって1匹だけ姿を見せていた。自転車で通り過ぎるとき、ふっと気配を感じて、目を向けるといるのである。
最初のときは、「おうおう、1匹だけになってしまったか」と哀れに思い、自宅に戻ってすぐ冷凍室の食パンをレンジで解凍して持って行ってやった。トーストして焦げ目もつけてあげたような気もする。
きょうも、何だろうねえ、パトリック・ジュースキント『香水』(文春文庫)の主人公のように、われわれが来るのを50メートルぐらい手前から匂いで察知するのか、あるいは腹時計がそうさせるのか、時間を狙いすましたようにいるわけですよ。

中秋の名月にタヌキは風流。
「化けて出る」「月夜にぽんぽこぽん」をテーマに、この時期、タヌキやキツネが出てきて化ける絵本を読みきかせに使うこともあるので、せっかく出てきてくれたお礼をしなくてはいけないと思い、6回目の外出に「らでぃっしゅぼーや」のおさかなソーセージという美味ソーセージを持参してあげに行った。すると、3匹姿を見せた。

きれいな月夜なので、やおら二本足で立ち上がり、腹つづみでも打ってくれやしないかと思わないでもなかった。

アレクサンドリア四重奏シリーズも含めて3冊ばかり、えいやっと感想を書きたい読了本があるが、どうも集中力をそちらに持って行けず。
きょうはbk1の書評がらみで大変有難いメールをいただいていたことに気づいた。右に記載したアドレスの方のボックスはあまり開けていなかったのだ。転送の設定もしていない。



【No.942】ある親族の会話のつづき…9月17日

従姉妹たちとよみがえらせる懐かしい日々、別に戻りたいと思うわけではないものの、いとおしく思い出せる日々に重なるのは、やはり須賀敦子が訳したナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』(白水社Uブックス)である。
イタリア現代史に残るインテリ一族のナタリア・ギンズブルグの結婚前の姓はレーヴィ。ジーンズのリーバイスと同じLeviで分かるようにユダヤ人の家系である。

家族のなかで用いられた辞句、何かあったときの決まり文句とともに家族の出来事を書いたこの小説は、私たちの子ども時代にもだぶる。
少子化が懸念される前、核家族化、単身化がここまで進む前の日本で、子どもたちが親戚、地域共同体、年の違う遊び集団のなかでさまざまな人とふれあい、社交性を日々の生活のうちに獲得していった時代のことを思い出させる。
不幸にしてまだこの小説を知らない人のために、少し軌道を外れながらもまだ操作は続けられているこの藻屑のような衛星から、書き出し部分を発信させていただく。

——子供のころ、わが家で私とか兄弟のだれかが、食卓でコップをひっくり返したり、ナイフを床に落としたりすることがあると、たちまち父のかみなりが落ちた。「ぶざまなことをするなっ!」
 私たちが、料理のソースにパンを浸して食べたりすると、「皿をなめるなっ! 行儀知らず! きたならしい!」などといって父は怒鳴った。父のいう、「行儀知らず」や「きたならしい」ことの中には、父にとって我慢のならない現代絵画まではいっていた。
「おまえたちの食事作法はいったいなんだ。それではちゃんとした場所には連れて行けないぞ」
「まったく行儀のわるい奴らばかりだ。イギリスのきちんとしたレストランならたちまち追い出されてしまうぞ」
 イギリスを、父はなによりも尊敬していた。文明社会を代表する、最も偉大な国がイギリスだと父はかたく信じていた。



 

powered by News Handler
Home
◆本をめぐる日常雑記中心。 読了本については、なるべくbk1へ投稿。「草書評」の楽しさを心がけます。 書影リンクが切れており、書誌データにはアクセスできない状態になっております。ご迷惑おかけいたします。 ◆ページ管理者:中村びわ(biwanaka[atマーク]infoseek.jp) 事実記載でおかしい点、誤字などそっとお教えください。 ◆Japanese Text Only

- Menu -
10月
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
過去の記事
2007年10月
2007年9月
2007年8月
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2007年2月
2007年1月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年9月
2006年8月
2006年7月
2006年6月
2006年5月
2006年4月
2006年3月
2006年2月
2006年1月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年9月
2005年8月
2005年7月
2005年6月
2005年5月
2005年4月
2005年3月
2005年2月
2005年1月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年9月
2004年8月
2004年7月
2004年6月
2004年5月
2004年4月
2004年3月
2004年2月
2004年1月
カテゴリー
◆新刊流通本
◆絶版・休版本
◆本を巡る雑記
◆映画と本
◆詩(Poetry)
◆出版ニュース
ブックマーク
◆書店bk1
◆日本の古本屋
◆the Literary Saloon
◆refdesk.com
◆JPIC
◆はてなアンテナ