泡姫ソープランド3

 日本の左翼運動の歴史が実に若いこと
その消長の過程が日本独特な近代社会の成立の性質を反映していること等は、当然プロレタリア文学にも甚しく影響している。文学理論家として過去のそれぞれの段階に意義深い活動をのこした人々はあるけれども、運動全体の若さ、歳月の若さはまたおのずからそれらの人々の努力の裡にも見られることである。プロレタリア文学における大衆性の理解、人間性というものについての理解、民族の文学に対する理解、それらの重要な諸点は、これまでのプロレタリア文学理論の中で勿論基本的に健全にとりあげられてはいたが、個々の作家の生活感情の中へまで、新時代の作家的稟質となってとけこんでいるとはいえない実際である。今日の社会事情は、これらの問題についても、プロレタリア文学者の熱心な究明と作家的実践を必要としている。現実を客観的に把握し得る作家的力量、作品を客観的に芸術価値高きものにすること、作家が社会の客観的関係と自身プロレタリア作家であることの真の意味とを理解して身を挺することを学ぶこと等が、必要とされているのである。
〔一九三七年四月〕


神戸風俗
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-31 13:58:00

プロレタリア文学者が、
ものを否定的にばかりいいたがるということが、小林秀雄、河上徹太郎氏その他の同傾向の人々からいわれたし、今も、これからもいわれるであろうと思う。一般の読者の中には、現実生活の重苦しさにげんなりした心持をプロレタリア文学の闊達と称せられない有様に結びつけ、その評言を当っているように思い、つづいて昨今青野季吉氏によっていわれている闊達自在論をそれなりによしと感じるひとがあるかも知れない。けれどもよくよく考えて見ると、プロレタリア作家が否定的にものを見るということは全く相対的な関係のもので、大衆生活の要求している積極的なものをいうためには、その反対物として提出されているものに対して先ずそれを否定し、何故にそれが否定されなければならないかを明かにしなければならないのは、誰の常識でも理解されると思う。
 例えば増税、物価騰貴に対して大衆は、先ず否定的な感情をもたざるを得ず、その表現は自然否定的な形から入って行く。文学では近頃日本的なものが云々されているが、私たちが日本人であり、しかも最も日本語というものの内容表現と密接に結ばれている日本の作家である以上、どうして日本的なものを否定しよう。逆にいえば、日本的なるものの歴史性のあらわれを、身にひき添えて一番つよく感じているのはプロレタリア作家であるとさえいえる。日本的なものということが、それだけ抽象化され、今日の大衆生活の現実との関係では、現実のありようから着実な観察の眼を引離す方向でいわれはじめた場合に、無条件でそれに賛同するプロレタリア作家もなかろうではないか。プロレタリア文学が置かれている今日の事情は、その否定の先に明示すべきものを明示し得ない制約の下にある。これは永年の根気よいプロレタリア作家をもとめた大衆の力で解決されなければならない。

岡山風俗
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-30 13:57:43

運動がなく、全体的な目じるしがないのだから
プロレタリア文学におけるプロレタリア性とか、プロレタリア作家が自分から自分の中に確認しようとするプロレタリア・インテリゲンツィア性というものも、とかくその人々の主観によって色づけられ、評価される危険が伴っている。何故なら特別な一部の人々を除いた大多数の読者は、読者自身何もはっきりとした判断のよりどころというものを持っていないのであるが、漠然この現実とブルジョア文学だけではあきたらぬ心持を托して読むのであるから、一方からいうとプロレタリア文学は今日些細なプロレタリア風な薬味を実は添えているだけであっても、読者から叱責され、或はきびしく批判されるという心配なしでやって行ける事情におかれている。
 プロレタリア文学がまとまった運動としてあった頃は、その仕事にしたがう人々の出処進退というのは、文学の本質が必要としている方向の上から、全般的にとりあげて吟味されたし、読者もそういう点ではプロレタリア作家の現実社会での身の処しかたと作品の評価とを一致させるべきものとして観ていたし評価した。今日ではこの点もゆるんでいる。一人一人のプロレタリア作家がブルジョア作家と同じような切りはなされ方で観られ、あの人はああ行動し、この人はこう生きている、という現象だけ漫然眺められている。プロレタリア文学者として云々という我にもひとにも通じる目安が、ぼけている。文学の仕事は、個性的なものであって、それぞれの作家は自分の足でだけ自身の道をプロレタリア文学の大道の中にふみわけてゆくのではあるが、プロレタリア文学者とブルジョア文学者との間には、例えば谷崎潤一郎と志賀直哉との間に在る作家的相異よりはまたおのずから異った質の違いというものがなければならないはずなのである。そして、これらのすべてのぼやけた、便宜主義的なものは、読者も作家も等しく今日の大衆として置かれている低さからあらわれたものなのである。

仙台風俗
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-29 13:57:27

プロレタリア文学というものの包括し得る領域が、
今日は非常にひろく複雑な内容に於て理解されて来ている。これは当然そうあるべきことである。それと同時に、左翼運動全般が退潮していて、間接な意味ででも一定の方向とか規準とかいうものが明瞭にあらわれていない。しかも、文化面だけでも社会の対立を意識する心にはそれが鋭く感じられる時期であるから、この三つの事情は相互に絡み合いその上外部とのめり張りによって局部局部では凹凸がはげしく、今日ほどプロレタリア文学の内容が雑多、複雑であったことは嘗て過去十何年間になかったであろうと思う。
 昔、文学の領域でアナーキズムとマルクシズムとの論争が旺んであった時代は、プロレタリア文学史のことで最も紛糾した頁をなしているのであろうと思うが、それは性質において今日プロレタリア文学内に交流し渦まきその頭や尻尾が見えつかくれつしている諸要素とは大いに違っていたと思う。昔は、何かの形で、当時としては発展的統一に向う過程の攪拌作用として生じていた。今日のプロレタリア文学内に包括されている諸要素は果して簡単に、プロレタリア文学の健全な発展のためにより多くの可能を齎(もたら)すものであるとだけ云い得るかどうか。
 プロレタリア文学の着実な日常性、大衆性というものの本質は、小林秀雄氏等によっていわれている大衆性とちがい、武田麟太郎氏がいう日常性と違ったものであり、プロレタリア作家は自身の生活と文学とでその相互をはっきりと描き出してゆかねばならないのであるということが、どの程度に鮮やかに感覚されているであろうか。

千葉風俗
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-28 13:57:07

プロ文学の中間報告

 プロレタリア文学運動が一九三二年以来次第に運動として形を失って来たにもかかわらず、プロレタリア作品とよばれる作品は今日やはりずっと書きつづけられており、決して消えてしまってはいない。
 これは、なかなか面白い観察されるべきことであると思う。芸術の各分野で文学が(中でも小説が)社会の現実を最も直接に反映し、再びその作品の芸術的効果において社会感情の裡に作用しかえしてゆくという特徴が、どんなに根づよい事実であるかということが考えられる。文学運動の形として団体だのサークルだのというものはなくされたが、私たちの毎日の実際生活の様々の悪感情、公平ならざる事情、この人生の動きかた、動かされかたに人間として疑問をもたざるを得ない諸事情というものは、経済上・思想上の自由がきりつまるにつれて、却って人々の心に意識されて来る。何かそこに方法を求め、何かそこに解決の可能についての見とおしを欲する感情が流れている。プロレタリア文学は、作者のそういう現実の生活感情が底潮となっているために、作品としてやはり人々の心をひく何かを含んでいるのである。そして、大局的に眺めわたせば、現代の紛糾と困難を縫って猶プロレタリア作品が生れざるを得ない社会の現実の姿が浮上って来るのである。
 或る人々は、プロレタリア作品がこのように内包しているプロレタリア性というものに我から全幅の信頼をかけ、その仕事にたずさわっている自身をも比較的手軽くプロレタリア・インテリゲンツィアという風に規定して、自分たちがそのようなものであり、プロレタリア文学の本質が左様なものである以上、現代のような事情の下では、須(すべから)く闊達自在にふるまって然るべしという見解を、今日示している。
 闊達自在であり、そのように生活し創作することを希わないというような人間が、この世に在り得るだろうか。誰しもそれこそのぞましい事情と思うのであるが、闊達自在という文学を頭の中で、或は感情の中で、描き想い翹望することと、今日の現実の社会関係の下で、プロレタリア作家が、闊達自在に生きるということとの間には、種々微妙なものが横わっている。

五反田風俗
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-27 13:56:48

然し昨今の作家同盟の活動が
活動が急速なテンポで闘争的な大衆の刻下の生活を反映する文化的要求をとりあげていることは、サークル活動、文学新聞の発刊などで明かだ。
 我々は、我々自身の立遅れや、戦術上の未熟を恐れるところなく承認しよう。何故なら我々の場合一つの不備な点を承認するということは既にその不備な点を克服しているということ以外ではない。
 ブルジョア経済機構が、何んとしても取り除けない矛盾を内部に持っているために、ブルジョア文化は螺旋状に低下する許りだ。
 誤謬を誤謬として認識し得ないブルジョア・イデオロギーに対してプロレタリアの世界観はブルジョア・イデオロギーに科学的な解剖と批判とを、厳密な自己批判と共になし得るところに、正しい弁証法的な基礎を持っている。
 ファッシズムに対し、如何に勝ち、プロレタリア文化を建設するかということが、我々に課せられた任務だ。
〔一九三二年一月〕


大阪風俗
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-26 13:56:27

          三
そのほかにも、ブルジョア作家のファッショ化の一形式として、一見、自由主義的な、或は復古趣味的な作品を書くことになって、ハッキリとファッショへの途を辿っている一群の人々がある。例えば牧野信一の「ゼーロン」川端康成の或る作品などは表面個人主義的な現実からの逃避を示しながら、現在の火華の出るような階級対立の現実から自身、眼を外らし、同時に読者をも科学的な世界観から切り離してくる点において完全にファッシズムの一つの支柱としての役割を持っている。群司次郎正ははっきりと自身のペンが軍事御用ペンであることを昨今は証明しているし『文戦』の里村欣三が『改造』の特派員となって軍事記者を勤め「坂本少尉武勇伝」に就いて、どんな階級的批判をも加えず、書立てているのも社民・労農大衆党と等しく、民主主義者と云うものはブルジョアの使傭人であることをなによりも雄弁に示している。これ等の実例でも明かのように、文化芸術に於けるファッシズムは決して或る限界線の向う側にだけ一纏めに固まっていて、その線のこっち側は綺麗だというものではない。一冊の雑誌を取ってみても、一枚の新聞の中にも、或は喫茶店でされる会話の中にも、ファッシズムの浸透とそれに抗して打ち壊(くだ)こうとする大衆の意志は対立して盛り込まれている。
 芸術上、ファッシズムに対する闘争というのは、従って極めて日常的に、細部に亙ってされなければならぬものであり、その闘争はただプロレタリア文学の正当な発展によってだけ行われ得る。それは世界のプロレタリア・ジャーナリズムの確立ということだ。日本プロレタリア文化連盟の出版所はこの意味から重大な階級的任務を持っている。
 プロレタリア各文化団体は、銘々の独特な分野で、最もプロレタリア的な文化戦術を学び取ろうとしている。最も正しい意味での大衆的な文化活動を始めている。然し公平に見て、例えば作家同盟のファッシズムに対する闘争は、やや立遅れの気味だ。ファッシズムに対する芸術的闘争としての作品は今月、徳永が「ファッシズム」と云う題で小説を発表している以外目ぼしいものは今日まで現われなかった。ファシストはこの一部の現象を見て「フン、どんなものだ」と思っているかもしれない。

名古屋風俗
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-25 13:56:04

「どうだ、もういいか」
 百姓は天狗に頼んで、その次にはとても、とても大きな石になって見せてもらった。
 最後に百姓は天狗に云った。「これで私も日頃から見たいと思っていた大きなものという大きなものはお蔭で見られました。せめてこの上のお願いは、あなたがどの位小さいものになれるかということです。一つ罌粟(けし)の実になって、私の掌に乗ってもらえたら思い残すところはありません」
 天狗は馬鹿にしきった顔で、
「ヨシ来た。俺は何んにでもなってやる」
と小ッちゃい罌粟粒になって百姓の掌に乗った。そこで百姓は自分が人間であったことを喜びながら、その罌粟粒を口に入れ、歯でよくよく噛んでこなして、翌日、糞にしてしまった。
 この話を直木三十五は、いつか聞いたことはなかったのだろうか。

群馬風俗
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-24 13:55:49

     二
直木三十五の宣言を読んだ時、自分は一つの昔噺を想い出した。
 ある恐ろしい山道で一人の百姓が天狗に出遭った。天狗は既に烏天狗の域を脱して凄い赤鼻と、炬火(たいまつ)のような眼をもった大天狗だ。天狗は百姓を見て云った。
「ヤイ虫ケラ。俺に遭ったのは百年目だ。サア喰ってやるから覚悟しろ」
 百姓は浅黄股引姿でブルブル震えながら云った。
「アアこれはこれは天狗様。話に聞いた天狗と云うのは、あなたのことでございましたか。昔から天狗に遭えば生身を八ツ裂にされて喰われるということは聞いておりました。この山中で逃れる術もありますまい。もう覚悟は決めました。然しこんな哀れな百姓にも一期の願いというものはございます。それを聞いては下さいますまいか」
 天狗は鷹揚に「なんだ、早く云え」と云った。
「話では、天狗は変通自在のものだと云います。私もどうせ喰われるからには、どうか一目あなたがほんとの大天狗かどうかを、見て死にたいと思います」
 天狗はカラカラと笑って「雑作もないことだ。註文を出せ。どんなものにでもなってやる」と云った。
 そこで百姓は腰をかがめて、願ったことは、
「この山のどの杉の木より大きな杉になって見せて下さい」
 天狗は忽ち数丈の杉の大木となって、百姓の前に聳え立った。百姓はその天狗の杉の幹を手で打ち叩き、打ち叩き感嘆した。
「ああ、なんと素晴らしいことじゃ。こんな見事な杉の木を見て死ねるというのは有難い」
 天狗の杉は満足気に云った。

熊本風俗
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-23 13:55:33

ブルジョア大衆文学の
才人直木三十五は、ついこの間「ファッシズム宣言」と云う啖呵文を読売紙上に発表して、三上於菟吉と共に民間ファッショの親玉として名乗りを揚げた。これは却々興味ある一つの出来事だ。直木三十五は持前のきかん気から中間層のインテリゲンチャが、ファッショ化と共に人道主義的驚愕を示し然も自身では右へも左へも、ハッキリした態度を示し得ないことに憤慨して、「俺は此の世に恐ろしいものはない。ファッシストにだってなって見せるぞ」と大見得を切ったのだ。ところで直木も俗学的な人生観を基礎とはしていても、才人だけあってファッシズムの暫定的な性質はボンヤリ理解し、抜目なく「向う一年間」と自身のファッショ化期限を決めている。この直木の態度と犬養健の態度との間には何処やら共通の一応の悧口さと基礎的な愚さとがある。
 犬養健も『白樺』へ小説を書いていた時は、人道主義的作家であった。ところが大人になるにつれて人道主義のヤワイ(柔い)ことが判って来た。中途半端な人道主義はイザと云う時、役に立たないと云うことを知ったところは犬養健の部分的な賢さだが、人道主義を清算して親父の秘書となって政友会に納まった所に、彼の決定的な階級性の暴露と見透しのきかないブルジョア・イデオロギーの具体化とがある。直木も似ている。右や左に気兼ねをして、然もどんな実践力も示さない未組織インテリの態度に歯かみをした所まではいいが、ブルジョア才人は才に堕して、彼の「青春行状記」に現われた直木的科学万能論と共に、六方を踏みながらファッショの陣営へ乗り込んだ。
「俺は何んにでもなってやる」と云いながら決してコムミュニストにならずファッシストになったところに実に津々たる興味がある。何んにでもなれるのではない、ファッシストにしかなれないのだ。然も一種の世間師だから期限付のファッシストを宣言したところ思わず人を哄笑させる。


東京風俗
コメント(0)| Track back(0) | 2005-12-22 13:55:16



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